友の会だより所蔵品解説
前田寛治(1896-1930)
《赤い帽子の少女》
1928(昭和3)年
油彩・カンヴァス
116.7x90.9cm






 前田寛治は鳥取県の生まれ。東京美術学校研究科在学中の1921年、第8回二科展、第3回帝展に入選。翌年暮、フランスへ留学の戸につく。1925年帰国するまでパリで、倉吉中学時代の同級生福本和夫から強い思想的感化を受ける。1926年、佐伯祐三・里見勝蔵らと1930年協会を設立。(J・C嬢の像〈1925〉)、(横臥裸婦(1927))、(棟粱の家族〈1929〉)などを残して1930年没。彼は生来の鋭い知性と豊かな感性とによって、いわゆるポエジーのある絵を描こうと苦闘した。その着実なレアリスムを武器にした作風は、記念碑的な量感表現と正確な質感の把握によって注目すべきものとなっている。

(無記名)

友の会だよりno.1 1982.12.15





 《赤い帽子の少女》は、最初の瞥では未完の感がし、重い色調と筆触の粗さが、少女という主題が潜在的にもつ詩情性を押し流しているようにみえる。親近感を寄せることを拒むような、ちょっと通好みというか。おそらくそれは、画面が予想以上に画家の理知的な精神によって考えぬかれ、構築されているからで、その知的なものが絵具のかたまりとなって、われわれの前に立ちはだかる。

 画面を構築するという、西洋的な絵画のつくり方を前田はパリ留学中に習得した。アングル、クーベ、マネを研究し、ヨーロッパ絵画の真髄に触れた前田が追求しようとしたのは「写実」の絵画である。その造形理論は、一、(説明的な描写でなく、触感をとらえることで物の)質感を得ること、二、(透視図法だけにたよることなく)量感を得ること、三、(一と二を満たして全体の統一感を得た)実在感を表すこと。

 前田が画家として本格的にしごとをした期間はとてもみじかく、1925年に2年半のパリ留学を終えて帰国してから、1930年に33歳で没するまでの、5年にも満たないわずかなときである。しかしその間前田は、精力的に「写実」の絵画のために実験的な制作をくりかえし、多くの秀作を残した。本作は、それがクライマックスに達したと思われる1928年に、描かれている。

 前田は、赤いワンピースにつつまれた少女の体躯を全体としてとらえ、体の凹凸や服の皺などのこまかな表現を省略し、大きな一つの固まりとしている。赤い絵具の広がりは、まず最初に絵具そのものであり、そして服の質感となり、また体の量感となる。背景にもみられる塗りの試行錯誤の中でたどりついたこうした絵具の使い方は、前田にとって明暗法を超えた、新しい色彩の使い方の出発となるものだったのだろうか。前田の「写実」の親展開をつなげるこの色彩は、日本の洋画の独自性をしめす可能性を充分に秘め、だから前田の早すぎる死がいっそうくやまれる。

(桑名麻理・学芸員)

友の会だよりno.55 2000.11.28


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